比佐 功 (高校)

福島県立磐城桜が丘高等学校長

 

 

平成30年度全国学校体育研究功労賞を受賞して

 

 この度、福島県学校体育研究連合会の御推薦を受け、平成30年度学校体育功労賞を受賞できたこと、大変ありがたく光栄に存じます。これまで、御指導・御支援いただいた先生方など、関係いただいた方々に厚く御礼を申し上げます。これまでの勤務経験の一部を御紹介させていただき受賞の喜びとさせていただきます。

 私は、昭和58年4月福島県の保健体育教諭として採用され、須賀川養護学校に配属されました。学校は、病弱な児童・生徒の在籍する学校で、養護・訓練という授業を通して健康や体力の向上に努めました。小さいながらも喘息等に立ち向かう児童生徒の姿を見るとき、そのような悩みの無い生徒が健康の大切さをもっと自覚すべきと強く感じました。

 3年後、勿来工業高校に赴任しましたが、そこには若さあふれる生徒が多数おり、砲丸投げやラグビーなどの単元があったので、先輩の先生に指導方法を仰ぐとともに事故防止などにも気を配り授業を実施しました。その後、楢葉町に社会教育主事として3年間勤務しました。生涯スポーツの振興に取り組む任務でありましたが、公民館事業や「ふくしま国体」の時期とも重なり、学校では味わえないような、地域の方々との触れ合いを通して業務を行うことができました。

 その後、磐城農業高校に5年間勤務しましたが、社会教育を通しての経験が、生徒の接し方、授業の進め方などに生きたと感じています。その次は、福島県体育協会で勤務することになり、勤務地は「Jヴィレッジ」でした。折しも「日韓ワールドカップ」の行われる年で、Jビレッジはアルゼンチンのホームタウンでした。サッカー専門でない私が、何故と思いましたが、福島県が「総合型地域スポーツクラブ事業」に取り組む「浜通り広域スポーツセンター」を設置するということでした。日本の社会や学校でのスポーツ活動のシステムを変えて行こうとする壮大な計画の元、日本各地で取り組み始めたものではありますが、学校体育を基盤としてきた日本の構造を変えていくには、更に時間がかかるものと感じました。

 その後、教育庁学習生活指導グループに異動になり、指導主事として保健体育の教科の指導や子供の体力向上に取り組むことになりました。当時は、「評価規準・基準」についての研究が始まった時で、生涯スポーツに取り組んでいた前の任務から比べると180度違って感じられました。ここで、一番思い出に残っていることは、本県の子どもの体力が低下傾向にあるということで、福島大学教授(当時)森先生の御指導を仰ぎながら、7人の小学校の先生を招き吉田信治指導主事(現いわき市立中央台北中学校長)と製作した「運動身体プログラム」でした。総ての小学校にDVDを配付し、地区ごとに実技研修会を実施しました。何もないところからの取り組みでしたので、研究にあたった7人の先生方は大変不安であったし、森先生も私達もどのようになるのか、手探しながらつくりあげたものでした。幸い、各小学校で取り組んでいただき、その後内容も改訂されるなど、東日本大震災後の児童の体力回復に役立っていることを思うと、取り組みは無駄でなかったとありがたく感じております。

 東日本大震災後は、相双教育事務所や小高工業高校に勤務することになりました。サテライト校など、運動施設の整わない学校で体育や部活動に取り組む先生や生徒の姿を目の当たりにし、一日も早い復興が必要と感じました。

 最後になりますが、いつの時代でも、児童生徒が健康で豊かな人生をおくるため、保健体育の充実が求められると感じています。保健体育に係る、総ての先生方の今後のご活躍を祈念いたします。